2009/09/09 -1
【聖書】ヨハネによる福音書3:16
子どもの頃「大人になったら何になるか」と聞かれ、その時代の多くの少年が考えていたように「勇敢な兵士になりたい」と答えたことを覚えています。その道を歩むことが子ども心に生き甲斐だったと思いますが第二次大戦敗戦によりそれは霧散しました。生きていてよかったと思えるようなことを「生き甲斐」と言いいますが広辞苑もそのように定義しています。従って「生き甲斐」をなくすことはとても辛いことですが人生の中では生きる目的をなくしたり奪われて「生き甲斐」をなくすか奪われるような経験は避けられないようにも思います。
三浦綾子氏は「ここに生き甲斐」という文章の中で「若いときの生き甲斐が大人になって通用しなくなったり、老年には老年の生き甲斐と言うように限定される生き甲斐は本当の生き甲斐ではないと思う。もしそうだとすると、人は生涯のうちに何度も生き甲斐を失うことになる。そうではなくて健康の時にも病める時にも、若い時にも年老いた時にも、たとえ仕事を失っても失恋しても不変のものこそ本当の生き甲斐といえる」と言うことを書いていますがなるほどと思いました。
「小さな聖書」といわれる言葉が新約聖書の中にあります。ヨハネによる福音書の言葉です。そこには「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と救い主イエス・キリストの言葉が記されています。これは真の生き甲斐を根底から支えるものではないかと思います。このわたしは神さまに愛されているのです。神さまの目からすれば無きに等しく、愛されるに価しないこのわたしを愛していると言い、しかも「独り子イエス・キリストを与えるまでに愛している」といわれるのです。使徒パウロはこの「キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)と実感を記しています。これは何ものにもまさる力であり励ましです。
