2009/10/02 -1
【聖書】詩篇40:2~4
いつの間にか30年以上過ぎてしまいましたが「津地鎮祭訴訟」がありました。津市の体育館建築に際し、市が主催し玉串料を支出し神式による地鎮祭が行われました。出席した一職員がこれを問題視し憲法の「政教分離」「信教の自由」に違反すると訴訟した裁判です。地域のおかれた環境と関わる問題でもあり関心をもっていました。その最終弁論が最高裁大法廷行われたとき傍聴の機会を与えられ参加したことがあります。そのときの最終判断は「合憲」でた。
町内会費の一部が神社への寄付になっていること、信者でもないのに神式地鎮祭にでること、お祭りの度に家の前にしめ縄をはられることなど納得できないけど黙認するより他はないという声は初めて赴任した開拓伝道の地域社会で深刻に聞かされたことを思い起こします。去る1月20日北海道砂川市「空知太神社」への市有地無償提供は「違憲」と最高裁判所は判断し、「空知太神社」敷地は管理上「合理的、現実的な手段」を検討するよう札幌高裁に差し戻しました。
作家の落合恵子さんは「だれにも聞こえなかった。あなたの声は」ではじまる「手を振っているんじゃない。溺れているんだ」というイギリスの詩人スティブィー・スミスの作品にふれ、あなたやわたしの近くでいま「手をふっているひと」はいないか?手を振り返すことが、わたしのたちの返事でいいのか」と(積極的その日暮らし)問うていますが考えさせられます。
詩篇37は「神賛美の詩」といわれますが詩篇38は「悔い改めの詩篇」と言われ41篇まで「苦難の詩篇」と呼ばれています。裁きという深い淵が口をあけて待っているような痛みと滅びの泥沼に溺れ「心は呻く」ような苦悩が襲う人生です。この言葉を預言者エレミヤは神さまの思いに重ねて、その深い淵も泥沼も神さまがご自分の内に背負い持っているというのです。神さまに信頼をおくということは真に平安を与えられることだと思います。
