2010/11/01 -3

【聖書】エゼキエル書18:32

 新任の小石川養生所の医師見習保本登は父母を訪て帰る途中、服毒による五郎吉一家心中の知らせを受けました。五郎吉の家族は妻おふみと虎吉を頭に長次・おみよ・おいちの4人の子どもたちです。路地を挟んで左右に並んだ棟割長屋の一角で起こったことでした。発見が早く夫婦は命を取り留めたものの、子どもたちは助かりませんでした。貧しくとも「一と匙の塩・醤油まで借りあい、兄弟以上につきあってながら、ひとこと相談してくれればよかった」と皆悲痛な思いです。「持って生まれた寿命を自分で捨てるなどということは罪だ、みんなが見殺しにできなかったのは当然のことだよ」登は言った。尤もです。
 「生きて苦労するのは見ていられても、死ぬことは放っておけないんでしょうか。助かったあと苦労がいくらか軽くなるんでしょうか」おふみの言葉が胸を突きます。この問いに答えられる者があろうか(山本周五郎「赤ひげ診療譚」)と読者は問われる思いです。1998年以降13年連続自殺者3万人超という社会の深部を突く言葉です。ジャーナリストの斉藤貴男は「経済成長あるいは生産性の向上をすべての価値に優先する思想が浸透し手段が目的化している」と警告しています(「日本の論点2011」文芸春秋編)。
 地獄の廃墟のようなところに立って、生きる目的を失った第二次世界大戦後、生きることを教える聖書の言葉を新鮮な思いで耳にし読んだ時、本当のものに「立ち帰りたい」と思いました。神さまの言葉は気休めではなかったのです。本気だったからです。独り子イエスさまを十字架の贖いのために渡す愛を貫いて「わたしはだれの死をも喜ばない、生きよ」と語りかけてくださったのです。「生きよう」と思いました。