2010/10/11 -1

【聖書】ガラテヤの信徒への手紙6:15

 子どものころ、田舎の墓地で、祖母からあれは「無縁仏」だと聞かされて何とも寂しい思いをした記憶があります。最近は「無縁社会」という言葉が聞かれるようになりました。昔は生まれて幼児期を肉親家族に囲まれてすごす「血縁関係」から、幼稚園・保育園・小学校と進み仲間ができ、家から近隣の「地縁関係」へ広がり、中学・高校・大学と進み働くようになると近隣からより広い社会に出て人々と出会う「社縁関係」となる図式は年齢とともにはっきりした成長過程だったと思います。
 60年代後半ころでしょうか「越境入学」や「お受験」「単身赴任」「核家族」に「高齢化」などの「用語」に見る社会の様相の変化と共に境界線が入り組みはじめ、曖昧になり、居場所を求め、あたかも駆け込み寺のように「無縁」という勝手口が開いていたのでしょうか。一人で言い知れぬ辛さを背負いつつくぐったことでしょう。
 血縁・地縁・社縁に次ぐ「第四の縁」を提唱する人もいます。無縁社会化する中に関わりを生み出すように、手を出そう口をだそうと昔の「お節介屋」・「世話好き」の提唱です。「縁」とは「関わり」を意味します。「人間は社会的動物である」とはアリストテレスの言葉ですが、人は横のつながりにおいて生きているのです。そして、愛は常に他の人との関わり合いを求めます。「愛がなければ無に等しい(コリントの信徒への手紙一13:2)」のです。
 使徒パウロはキリストの十字架の愛に注目し「世はわたしに対し、わたしは世に対して十字架につけられた。大切 なのは新しく創造されること」だとキリストにおける新生を告白していますが今日注目すべき言葉です。